受肉じゃ。

聖書を読もうが資本論を読もうがボトムズを観ようがモバゲーをしようが死んでしまえばそこでおしまいなのだ。
そうは思いつつも生きている間、己を高みへ向かわせたくなる親心。しかしながら実際立ち向かってみれば骨の折れることは多く、市井の片隅に生まれ育ち老いて死んだ人間も吉本隆明も大差はなく、サルトル マルクス並べてもあしたの天気はわからねえ。ひらく夢などあるじゃなし。
そんな考えがよぎると高みなどという意味のわからないものを目指す己が滑稽に思えてきて、改めて己は何を成したいのか問うのである。何も成したくないなら今すぐ死ぬか、死をただ阿呆のように待っていればよい。ただ今はそうでもないらしい、俺は何かを成したいらしいと。哲学だね。
では今己が欲しているのは何かと言うと哲学ではなく、ボトムズでもない。この頭のモヤモヤと体の気だるさを弾き飛ばして作曲をする活力だ。その足掛けになる何かだ。即ち力強い生活だ。
快食快眠快便。この三つに限るだろう。人間というのは案外けだものなのである。もう一つ加えるならセックスだ。