盲信による価値観のぶつかりについて

盲信、という二文字が浮かび上がってきた。
色々と不満を抱くこともあるのだが、その中でどうにも納得のいかない、理不尽な点を考えていくとそこに何かに対する絶対的信用が存在しているのだ。
世界規模の話で言えば宗教という奴だろうが、僕が直面したのはもっと小さい個人規模の、個人の心の中のちょっとした価値観へのものだ。
無神論者が大抵ダーウィンの進化論を信じるように、無宗教の日本人が科学を信じる。それも捉えようによっては宗教と言えるだろう。「我々だって科学という宗教を信じているじゃないか」という漫画や映画に出てくるセリフだ(カフェインというドラッグを、の間違いかもしれないが)。
ある人はアカデミズム、権威主義に絶対の信頼を置いて、ときおり厄介に振り回す。
ある人はいい大学を出ていい会社に入っていい嫁さんを貰って幸せな家庭を築く、昭和的幸せ(もしくは団塊世代が子供に望んだ幸せ)こそが至高であると、口には出さず承前のように他人に語りかける。
社会的地位、金銭、目に見え易いものを信ずる人もいる。それらを頑なに否定し、そうでないものに幸せが宿るかのように語る人もいる。
さらに細かいことを言えば音楽性にしてもそうだ。これもまたアカデミズムが絡んでくるのだが、やはり何かしらの「こういったものが高貴な音楽で、これは下賤な音楽だ」という偏見として現れる。個人的な好みとしての良し悪しの判断であればそこに嫌悪感は抱かないが、「譜面も読めず楽器もヘタクソな連中の」だとか「テンションとか転調とか頭をもっていかれた奴」だとか「打ち込みで有機的なグルーヴがない」だとかそういったバイアスを感じた物言いは途端に気持ちの良くないものになる。
些細な信条、イデオロギー?そこに何かしらの思考停止を感じた時、抑え難い苛立ちや怒りが湧き起こる。今まで自分の感じていた負の感情の原因のいくらかを占めるものとして、そういった存在に気付いた。
盲信というものに気をつけよう。自戒を込めて言う。